知らぬが仏でいたかった件
非常にプライベートすぎることなので申し上げることはできませんが、生まれて初めて、嫉妬のあまり涙が出ました。人からジェラシーを感じて相談されて答えることはあっても、当事者に自分がなると、こんな震えるくらいイライラして誰もいない家で絶叫して自分の器の小ささにガッカリするなんて思いもよりませんでした。いや、自分の小ささに気づいていなかったのは私だけだったのかもしれません。
知らずにいたら良かった、それを知ってしまった。ただそれだけのことです。向こうは無自覚。勝手に私が気付いて傷ついてしまっただけのこと。誰も悪くない。
私に出来ることといえば、これを芸の肥やしにして今後書く小説の心理描写に深みとリアリティを持たせてあげられること。それだけでも儲け物だと思うしかないです、今は。嫉妬するあまり息苦しくなるなんて、実際に経験するまで知り得ないことでした。
昔、大学の時に上代文学の講義で聴いたことで、今も耳から離れない言葉があります。
「文学は弱者のもの」。自分が弱い、あるいは負の立場にいないと見えてこないもの、生まれてこないことがあるのでそういうのだと思います。
以前、29歳の時に高校1年生を主役にした小説を書いたことがあります。今時の高校生ってどんな生態かしら⁈と頭を捻りつつ、結局自分の高校時代(私の中では最黒歴史時代)のエピソードを下敷きにしてちょっとアレンジして書いた覚えがあります。でも、小説って自分の中にあるものしか出てこないんです。どれだけそれまでインプットしたかが作品の内容に影を落とすと思うのですが、私の場合、その作業は一種のセラピーでした。
先日、息子たちの相談でスクールカウンセラーの先生とお話したのですが、その時も私、力説してしまいました。「日記とか、文章を書くのが苦にならない人は小説を書いたらセラピーになるんですよ!」と。
実際、その小説を書くことで、心の奥に置いてけぼりにしていた高校生だった自分と仲直りができ、ずいぶん心が癒されたのです。当時の幼かった自分が周囲に伝えたかったこと、本当はしたかったことにきちんと耳をすませて聴くことができたからです。聴いてやれる大人はここにいるよ、と心の奥にいた自分に呼びかける作業が、私には小説を書くことだったというわけです。
ということで、今は小説でも書いてセルフでセラピーやります!美味しいものでも食べながら🎶いや、酒がいいな、いや、酔いながら書くわけにもいかんな、いや、酔わないな…(エンドレス)
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